2020年10月22日
お知らせ

先日、SNS担当の私が約3ヶ月ぶりに伺いましたのはカトリック飽ノ浦(あくのうら)教会。気持ちのいい秋晴れの空の下、造船のまち長崎の風景が眼下に広がります。目の前には世界遺産のジャイアント・カンチレバークレーン!


1909年(明治42年)、同型としては日本で初めて建設されたというこの巨大な電動クレーンは100年経ってなお現役。三菱重工内の機械工場で作られた製品や機材を船に積み込む役目を担っているそうです。ずっと長崎のまちを支えてくれてありがとうございます!

そこに、ふと聞こえてきたオルガンの音色。まだ開式1時間以上も前なのに…。静かな聖堂には、熱いハートでひとり黙々と練習なさっているオルガニストNさんの姿がありました。たくさんの信者の皆様によって故人様との最期のひとときが作られています。ステキな演奏をいつもありがとうございます!

⚠️聖堂内での撮影は許可が必要です⚠️

2020年10月13日
お知らせ

ここ数日、すっきりとしたとてもいいお天気が続いています。こちらは昨日、SNS担当の私が約1ヶ月ぶりに伺いましたカトリック浦上教会。天主堂の煉瓦色が青空にくっきりと映えて綺麗でした。

聖堂を入ると左手に安置されているのが、以前ご紹介した『被爆マリア像』のレプリカ。そしてマリア像の左脇にありますのは2019年8月7日に米国オハイオ州のウィルミントン大学平和資料センターから浦上教会へ返還された『被爆十字架』のレプリカです。マリア像も十字架も、実物は被爆マリア小聖堂に安置されています。


この被爆十字架は原爆で倒壊した旧浦上天主堂内にあったとみられ、高さ約1メートル、横幅約30センチの木製。終戦の年の秋頃、長崎に進駐していた米兵、ウォルター・フック氏が当時の山口愛次郎長崎司教様と親交があり、浦上天主堂のがれきの中からともにこの十字架を発見して司教様より譲り受け、ニューヨークへと持ち帰っていたそうです。74年の時を経て昨年8月に浦上天主堂へと返還され、同月9日夜の平和祈願ミサで奉納・披露され、話題となりました。

実は、この被爆十字架のレプリカを今年作製しましたのが、以前こちらでも紹介させていただいた弊社のエース田中でございます!

という訳で急遽かつ久々に『エース田中のカトリック木工職人への道! 〜被爆十字架レプリカ編〜』はじまりはじまり〜( ´∀`)

それは、今年6月24日の出来事。
浦上教会の久志主任神父様がひょっこり栄光式典社にお見えになり、被爆十字架のレプリカを2本作れないだろうかと会長に相談されたのです。かつてあの被爆マリア像を修復した弊社会長の腕を見込まれてのことだと思うのですが、会長も高齢で一線を退き今や後進の指導に専念しているため、エース田中の出番と相成りました!

とは言え、普段手掛けている香台や祭壇などとは違い、レプリカですからとにかく本物そっくりに作らないといけない訳です(汗)しかも2本も…(大汗)

しかし何故2本?
久志神父様曰く、『本物は一般の人が立ち入りできない被爆マリア小聖堂に安置されているので、レプリカの1本は浦上天主堂にいらっしゃる観光客や市民の皆様に広く見ていただくための展示用。そしてもう1本は寄贈してくれたアメリカの大学へお礼にプレゼントしたい!』

…なんという熱い思い。そして俺が作ったレプリカが平和への思いを込めて長崎から海を超えアメリカに行くなんて!これはもうやったことのないジャンルでもやるしかなかとです!長崎浦上のカトリック信者として!!

かくして本物の被爆十字架を神父様よりお預かりし、エース田中の試行錯誤の日々が始まりました。久志神父様のご意向では、1ヶ月半後の8月9日のごミサで信者の皆さんにご披露したいとのこと。また、十字架のレプリカ2本と併せ、被爆マリア小聖堂へ本物の被爆十字架を展示する専用の台もご依頼をいただきました。



エース田中曰く、長崎の、いえ日本の歴史の証人である被爆十字架のレプリカ作りでは、本物そっくりのダメージ感で着色するのがとても難しかったそうです→普段は綺麗に色を付けるのが仕事ですからね!(ごもっとも!)

そして本物展示用の台は少し高さを付けて作っていたエース田中。久志神父様から、この十字架がかつて天主堂のマリア像の天蓋の上に立てられていたもののようだとお聞きし、『昔と同じように十字架をみんなが見上げるようにしたくて台を少し高くしてみた』とのこと→なるほど、私はそこまで想い及びませんでした。(ちょっと尊敬!)

葬儀の仕事も並行しながらの作業でしたが、何とか8月9日のごミサ前日までに完成し納品させていただきました。

実はこの記事は、久志神父様がアメリカにレプリカを持参し直接ウィルミントン大学へお渡ししたいとお聞きしていたので、その日まで温めておくつもりでしたが、コロナ禍がいつ終わるのか全く見通しが立たないため、久志神父様の許可を受けて本日掲載させていただくこととしました。

ちょうど昨日は、聖堂入口の被爆マリア像と十字架レプリカの脇に、昨年パパ様が来崎された際にお座りになった椅子が展示されていました。普段は聖堂の奥の祭壇付近にあるこの玉座ですが、一昨日行われた司祭叙階式のため一時的にこちらの聖堂入口近くに展示しているそうです。

パパ様の玉座が間近で見られるのがいつまでかははっきり分かりませんが、お近くにいらっしゃる皆様はどうぞこの機会に浦上天主堂に拝観にお越しください。エース田中の力作、被爆十字架のレプリカも併せてご覧いただければ嬉しいです( ˘͈ ᵕ ˘͈ ) ただし、田中作の十字架展示台(写真4枚目)は、被爆マリア小聖堂の中に本物の被爆十字架とともにありますので、一般の方はご覧になれません。

掲載許可をいただきました久志神父様、本当にありがとうございました。アメリカご訪問の際には、レプリカ製作者としてぜひエース田中をお供にお連れください!(道中記の掲載もよろしければ許可してほしいです。笑)

⚠️聖堂内での撮影は許可が必要です⚠️

2020年10月4日
お知らせ

10月に突入し、早いもので2020年も残り3か月!今年は新型コロナウィルス感染拡大防止のため、日本三大祭りの一つである長崎くんちの奉納踊りや御神幸(お下り・お上り)がすべて取り止めとなりました。7年に一度巡ってくる踊り町の晴れ舞台である奉納踊りは、来年以降に繰り延べとなるそうです。来年10月には長崎の街にシャギリの音が響き渡ることを切に祈ります!

さて先日、約9か月ぶりにお伺いしましたのはカトリック香焼(こうやぎ)教会です。もともとは二つの島だったこの地の歴史は古く、西暦804年の昔、遣唐船で中国(唐)へと向かっていた弘法大師・空海が荒天のため一時避難し、お香を焚いて(焼いて)仏様に感謝を捧げ航海の無事を祈ったことから、その島が香焼島と呼ばれるようになったと言われています。

また江戸時代末期の1815年頃、外海黒崎のキリシタンが迫害を逃れて移り住んだのがもう一つの島・蔭ノ尾(かげのお)島で、そこからこの地のカトリックの歴史が始まったと言われており、1896年(明治29年)にはカトリック蔭ノ尾教会が献堂されました。

その後1942年(昭和17年)に海が埋め立てられ二つの島は地続きに。更に戦後の高度経済成長期の真っ只中1967年(昭和42年)には、三菱重工業が蔭ノ尾地区に造船所を建設することとなり、それに伴って翌年には深堀地区との間の海が埋め立てられ、香焼一帯は長崎半島と陸続きになりました。併せて昭和45年には蔭ノ尾地区住民が香焼地区へと集団移転し、教会も翌1971年(昭和46年)にカトリック香焼教会として現在地に献堂されています。

今回は聖堂外観の写真を掲載させていただきます。この4月、五島の奈留(なる)教会からダニエル神父様をお迎えした香焼教会は大きな赤い屋根が印象的です。広い敷地の中には、こちらの初代主任司祭であられた故・浜口健市神父様が寄贈なさったと思われる聖ヨゼフ像があり、そしてマリア様の御像も訪れる方々を優しく見守っておられます。

香焼教会から前回ご紹介した伊王島・馬込(まごめ)教会へは、伊王島大橋を渡ると車なら10分ほどで到着。清々しい秋の日、天気が良ければウォーキングコースとしてもオススメです!

ダニエル神父様、香焼教会の役員様、大変お世話になりありがとうございました。


⚠️聖堂内での撮影は許可が必要です⚠️