Insta&FB更新【8月9日に心寄せて~被爆マリア像の物語~】
2020年8月9日
お知らせ
今から75年前の昭和20年(1945年)8月9日 午前11時2分、長崎浦上の上空で一発の原子爆弾が炸裂しました。
長崎では毎年この祈りの日にあわせ、朝日に照らされた平和祈念像や浦上天主堂の朝のごミサで祈りを捧げる信者の映像などがテレビ画面に溢れます。その浦上天主堂の中には『被爆マリア小聖堂』という特別な空間があり、そこには『被爆マリア像』が安置されています。この被爆マリア像の復元や小聖堂の祭壇製作には、弊社が大変深く関わらせていただいております。
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右頬は想像を絶する熱線により黒く焼け焦げ、眼窩はそのあまりの惨状を見るに忍びなかったのか空洞になっている無原罪の聖母の頭部(通称:被爆マリア像)は、終戦の年の10月末、復員した長崎浦上出身の今は亡き北海道トラピスト修道士・野口神父様により、原爆で焼失した旧天主堂の瓦礫の中から奇跡的に発見されました。
その後長く、故・野口神父様により北海道トラピスト修道院にて大切に守られてきたこのマリア像は、被爆から30年目の昭和50年(1975年)に長崎へと戻され純心短期大学に保管された後、平成2年(1990年)から浦上教会の信徒会館のロビーに展示されていたそうです。
3つに割れ、糸でかろうじて結び留められていた被爆マリア像。指物職人であった弊社会長がその存在を知り、平成12年(2000年)に神父様立会いのもと復元して現在に至ります。
その後、被爆60周年記念としてこの被爆マリア像のための小聖堂の整備計画と並行して、弊社が像を安置する祭壇の製作を拝命。被爆当時の旧祭壇の絵をもとに、当時70歳を過ぎていた弊社会長がカトリック木工職人としてのすべてをかけて陣頭指揮を執り社員一丸となって、ケヤキの生地や木目を生かした祭壇を10カ月ほどで完成させたそうです。
当時、弊社会長がある冊子のインタビューに次のようなことを答えています。『長い間しまわれてきた被爆マリア様がやっと祭壇に安置され、全ての人々の崇敬を受ける場に来られたことがとても嬉しい。長崎にいながら被爆マリア様の存在を全く知らず、それを知ってからの5年間、私はこの被爆マリア像を安置する祭壇をこの手で造るのが夢だった。祭壇を造りなさい、というマリア様の声が私の心には はっきり聞こえました。』
被爆60周年の平成17年(2005年)8月9日、高見大司教様によって祝別された『被爆マリア小聖堂』の壁には、原爆で亡くなった当時の浦上信徒のお名前がお一人お一人、6枚の大きな銅板に彫られています。原爆で亡くなった方々の永遠の安息と世界平和を祈る場として献堂された被爆マリア小聖堂。本日は、浦上教会の久志主任神父様より特別に撮影と広報許可をいただき掲載させていただきます。
あの日消えてしまった全ての御霊に、その後苦しみながら亡くなられた全ての方々、先の大戦で犠牲となられた全ての方々に、8月9日の長崎から静かに祈りを捧げます。
⚠️聖堂内での撮影は許可が必要です⚠️